制度の改革がいよいよ大詰めに近づいているという感がいたします。良い方向に向かっているのかどうか、なかなか判断の難しい状況です。福祉の世界の変遷を考えると、確かに少しずつではありますが、多くの人々に光があてられてきたと思われます。しかし、その歴史の中には無数の人の願いや思いの中での格闘が、見えない形で埋め込まれているのではないでしょうか。
デンマークでノーマライゼイションが始まったのは、ナチスの「障害」のある人たちへの圧倒的な差別と虐殺の歴史の中からのことでした。日本ではそこまでのことはなかったとしても、長い間の差別と無視と隔離の歴史を経験しています。そうした中で、消え入りそうな声を奮い起こしながら、主張を繰り返して来ました。しかし、今なお、主張し続けなければなりません。
私がこのグリーンローズに勤務し始めた昭和40年代でも、「障害」のある子どもに対して、家族の負担を取り除く、すなわち子どもを施設に隔離する、という施策が一般的な考えといってもいい時代でした。当時の入所の施設は、「収容」施設と呼ばれていました。幼い時期から、施設に 「収容 」される子どもたちを何人も見てきました。この 「収容 」ということばに、当時の時代が象徴されています。
昭和40年代前半から、グリーンローズの創始者である片桐格先生は、この秋田で「障害」があるとしても教育する、支援する、彼らから学ぶことがたくさんある、等々の考えを伝え始めました。昭和40年代後半、少し時間はかかりましたが、その考えが、燎原の火のように保護者・家族の間に広まっていくのを私は実感しました。保護者・家族はそのような負担の軽減を求めていたのではないのです。自分の子ども、家族としての子どもを「障害」のあるということで教育しないなど、基本的に考えられないことだったのです。私たちはそこから「障害」のあるなしにかかわらず、あたり前に生きていくことを求めるようになったのです。ささやかな願いかもしれませんが、そこには長い歴史が語りかけています。
近年の制度の変遷は、社会の中での自立と共生という大きな方向性であり、それは基本的な方向性であると言えると思います。しかし、そうした制度の変遷の中で、福祉サービスを提供する側・受ける側もともに、事務的に煩雑さの方向にも向かっているのではないかと思えてなりません。支援までの流れを考えますと,事務的な手続きが大切なことも分かります。しかし、事務手続きの煩雑さが、子どもたちとの出会いから職員を遠ざけているるとすれば、逆立ちしていることになります。多分、子どもとの世界で働くほとんどの大人は、子どもを前にすると、その子どもを成長させたい、受けとめたいとしか思えないのではないでしょうか。それは子どもの力なのです。なぜ、そうした世界を煩雑にし、その事によって子どもとの距離が乖離しかねないという状況にするのか理解に苦しみます。教育現場の事務煩雑さが、教師を教育から遠ざけてきたという姿に似ています。
かつて厚労省の障害福祉課長が、「重症児施設の職員とのやりとりがある。重症児施設は少なく、選択の余地は無いに等しいのに、自分たちの仕事の質を上げようと、ほんとうに日々努力している。」と語ったのを覚えています。それは、子どもがそこにいて、日々その子どもたちと対峙しているからです。契約への移行の直前でした。今の制度の中であっても、簡明に子どもたちとしっかり向き合える形をめざすべきではないでしょうか。
国は子どもたちにお金をかけなければいけません。子どもたちに「障害」があるとかないとかにかかわらずお金をかけなければなりません。子どもたちは、未来そのものだからです。子どもたち、子どもたちの未来(それは私たち自身の未来でもあります。)のためにお金をかけることに反対する人がいるでしょうか。
あらゆる場所で、家族の不安や心配に対し、手を差し伸べられる制度、共に差別や偏見を受けない制度、共に豊かに生きていける制度、今、始まろうとする制度がこの思いを内包しているとすれば、活きた制度にしていかなければなりません。
制度はいつも遅れてやって来ます。今始まる制度は、長い歴史の声を聞き、子どもたちや保護者、家族、そして子どもたちをとりまく人々の思いを実現するための制度としてやってきたのにちがいありません。
そうであることを強く願っています。
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